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90年のデビュー以来、4年目にして、日本でのアルバム総セールスがついにマイケル・ジャクソンの記録をもしのいでしまった。この事実ひとつ見ても、マライア・キャリーがいかに並外れたスターであるかわかるだろう。7オクターブに及ぶ美声、圧倒的な表現力、さらに、自らをプロデュースする能を併せ持つ、24歳のアメリカ性が今、世界の音楽シーンをリードしていこうとしている。それも、だれもが想像しなかったエキサイティングなやり方で。

Mariah Carey - Men's Non-No Magazine (Japan) - April 1995 - Scans
Magazine Scans
Men's Non-No (JP) April 1995.

スーパースターと呼ばれる人に伝説はつきものである。いや、起こったことすべてを伝説に変えてしまう人だからこそ、スーパースターなのか。マライア・キャリーも例外ではない。デビューのきっかけからして夢のようだ。

高校卒業後、マライアは、デビューをめざし、マンハッタンでひとり暮らしを始める。音楽家としての初仕事は、ブレンダ・K・スターのコーラス。ある日、ブレンダからパーティーに誘われ、そこでCBSレコード社長(現ソニー・ミュージック社長)のトミー・モトーラ氏を紹介されるが、緊張のあまり、挨拶するのがやっと。しかし、ブレンダは、マライアのデモテープをこっそりモトーラ氏に手渡していた。帰りの車内でそのテープを聴いた途端、モトーラ氏はマライアとの契約を決断。あわててパーティー会場に引き返すが、すでにマライアの姿はなく、翌日に電話。パーティーのあったのが金曜で、月曜には契約の話し合いが持たれた。その後、モトーラ氏と20歳の年齢差を超えて熱愛、結婚・ということを考えてみても、当時18歳だったマライアにとって、それはまさに運命の週末だった。

「パーティーで会ったときは、彼がだれかも知らなかった(笑)。で、その月曜日、私、こわくて、ママと一緒に彼と会ったの」

マライアの音楽的才能は、この母親から多くを受け継いでいるといえそうだ。母・パトリシアは、シティ・オペラのソリストであり、ジャズもこなすプロの歌い手だった。「話しだすと同時に歌いだした」といわれるマライアが、音楽の世界に身をおきたいと考えるようになったのは必然だった。4歳ごろから、母親のボーカルコーチを受けるようになる。

それにしても、だ。どんな努力や恵まれた環境があったにしても、あの歌声はどこからくるのか。7オクターブという声域、音楽そのものの豊かさをありったけ伝える表現力・・・。

マライアはこう言っている。「自分の声がどうなっているのか、私自身にもわからない。あれは、そう、私の声の中の、別の声。私はそれをただ素直に出すだけなのよ」

もちろん、マライアの魅力は、輝くばかりの歌声だけにとどまらない。セルフ・プロデュースに、詞&曲&アレンジまでこなす才能と、それを支える抜群のセンスが、彼女の音楽に奥深さと普遍性を与えている。

親の聴くオペラやクラシック、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーン・・・。年の離れた兄や姉のかけるアレサ・フランクリン、ジャクソン・ファイブ、スティーヴィー・ワンダ!・・。子ども時代、マライアの家の中には、いつも音楽があふれていた。「とにかく、私は、耳に入った歌を片っ端からまねて、一日中、歌ってる子どもだったの。よく、ベッドの中にまでラジオを持ち込んで、ママに見つからないよう布団をかぶって聴いては、ささやき声で歌ってたものよ」。そして、今、マライアの生みだす音楽の中にも、ゴスペルやR&B、ジャズ、さまざまなジャンルのサウンドが自由に解き放たれている。

さらに、歌に託された彼女のポジティブなメッセージも、多くのファンの心をとらえた。例えば『ヒーロー』(シングルとして連続8作目の全米ナンバー1に。フジテレビ系ドラマ『FOR YOU』のテーマ曲となり、中山美穂がカバーしている)。だれの心の中にでもいるヒーローを信じて、さあ、夢のために動きだそう・・・と、勇気を与えてくれる内容。

「ママは、いつも私にこう言ってた。”まず、できるって信じること。そして、そのためにやれることをするだけよ”って」

人種問題のたえないアメリカで、黒人と白人のハーフとして生まれたマライアの子ども時代は、決して幸福なわけではなかったという。しかし、彼女は、決して夢を手放さなかった。強く思いつづけることは、こんなにも美しくすばらしい”という、マライアの歌の多くに息づくメッセージは、彼女自身の生き方そのものから発せられているのである。

私は、あきらめなかった。それで現実に今、こうなっているというわけ」。そう、デビューするやスーパースターとなり、プライベートでは「実は、一生、結婚なんてしないと思ってた(笑)」にもかかわらず、社長夫人に・・・。

彼女の歌は魔法を働く。聴く人を勇気づけ、ハッピーにしてくれる。だが、その魔法は、世界中のだれよりも、マライア自身に大きく働いたのだ。たぶん、彼女が夢みてた以上に。

「水泳、乗馬、ジェットコースター、料理・・・みんな好きだけど、やっぱり歌がいちばん!」

功をつかんでも、音楽への貪欲さは「シンガーになろう!」と決心した4歳当時と変わらない。「確か、ちょうど4歳だったと思うけれど、ミニー・リパートンの『ラビン・ユ1』を聴いて、あの高音を自分でも出そうと必死にトライした。今も自分がどこまで高い声が出るか模索しながら、それを作品に生かしているつもり」とマライア。その言葉を裏づけるかのように、ブレーンのひとり、一流プロデューサーのロバート・クライヴィルズはこんなことを言っている。「彼女は"宿題をかさずにやってくるコ”だね。大物になると、何の準備もなしにスタジオへやってくるアーティストも多いが、マライアはちがう。前もって、自分なりに歌のレッスンを重ね、アイデアを練って、スタジオに入る。その瞬間から"さあ、始めましょう!”というわけだ」。

現在、1年に1作のペースでアルバムを発表。今年も秋にリリースが予定されている。

日本においても、マライアは、情頼のおけるブランドとして定着。来日公演への期待も高まるばかりだ(年末あたりに実現か!?)。

'93年、マライアは、アルバム『ミュージック・ボックス』(全世界で1990万枚のセールスを記録)のプロモーションのために来日している。移動はキャデラックのリムジンを使用、ホテルのスイートにはフランスの高級シャンパン”クリスタル”を常備・といった.指定"がマネージメントサイドからなされたときくと、スーパースターとしての威光を感じずにはいられないが、マライア本人は、いたって気さく。本物のスターだけが放つオーラをさらりとまといながら、ハードなスケジュールも笑顔でこなした。電磁調理器や電子レンジを部屋に持ち込み、テイクアウトしてきた好物のパスタ(イタリア系のモトーラ氏の影響か・・・?を温め直して食べたり、成田を発つときは、空港でクマのぬいぐるみを購入し、「抱いて帰るわ」とごきげんだったり、偉ぶるところの少しもない 20代の女性”としての表情を印象づけるエピソードも。

音楽的な成熟(みごとな曲線を描く肉体も、だけど)と、ピュアなキャラクターとを、絶妙のバランスで同居させているマライア。そんな彼女は、これからも、数えきれないほどの"伝説”を作りつづけていくのだろう。

マライアが歌っている。それは、なんだか、その歌声が、もともとの住処である天をなっかしむ神秘的な行為のようにも思えてくる・・・。